感じたことをそのままに その3

2008年03月28日 09:44

このところこのテーマのお話が続いており、eighterさんには若干関係ないような…って気もしないでもないのですが(苦笑)
こうして新規記事で書くことをお許し下さい。
タイトルで察して頂けると思うのですが、今回も元は個人宛のメッセージです。
このメッセージは『感じたことをそのままに その2』に寄せられた、maiさんのコメントを私自身が読んで、感じ、考えたことです。
これについても何か感じることがあれば、コメントを寄せて頂きたいと思います。


maiさんへ

こんばんは、改めましてはじめまして。
まずは、拙い記事を読んで下さってありがとうございます。
そして、それに私と言う人間を見てくださったこと、これも本当にありがとうございます。
maiさんの言うような人間には、まだ程遠いと自分では思っているのですが、少しでもお力になれたらと、言葉を綴ってみることにしました。
極力、maiさんの思いに近付けたらと頑張ってみましたが、納得できないこともあるやもしれません。
ただ、今から書くことが、私にとっての、今の言葉だと、そのまま受け取って頂けたらと思います。



まずは。
このお話をする前に、以下の2点について、頭の隅でも良いので置いておいて欲しいのです。
1つ目は『アーティスト(アイドル)に理想を抱くファンの心理とは?』ということ。
そして、2つ目は『誹謗中傷と批判の違いとは一体何なのか?』
これをキーワードとして、頭に置いてみてください。


maiさんのコメントを読ませていただきました。
まず飛び込んできた印象、この文章の印象は『苦悩』でした。
文章の深い意味を考えるまでにも至りませんでした。
最初に1度読んだ限りでは、その苦しい思いの方が先行してしまって、私なりの判断というのも難しいと感じたほどでした。
ただ、これではmaiさんに客観的なメッセージを伝えることもできないので、心して何度も読み返してみることにしました。
読み返すうちに、グループの名前等が匿名で書かれているのは、きっと自分の「悲しい」「傷付いた」という気持ちを抑えるためのものではないか、と最初の部分を読む際には推測しました。
しかし、最後まで読むと、それ以上に、自分の好きなものをこれ以上「晒したくない」という気持ちの表れでもあるのか、ということも感じました。
つまりは、彼らのファンでない人、一般の人に、彼らのことを悪く言われること、悪く感じられることを、これ以上避けたいという気持ちが強いのではないか、ということです。
つまりmaiさんは、彼(△さん)に傷つけられた、と言いながらも、△さんやグループを、擁護する気持ちもあるのではないか、ということを感じました。
この文章を読めば、maiさん自身が○さんが好きで○さんを陥れたくない、ということは明らかであるのにです。

その心理に一つポイントが隠れているのではないか、と私は思います。
アーティストやアイドルに限らず、所謂『有名人』という人間に対して、それに所属しない人間(一般人ですね)は『憧れ』や『希望』を抱くことがあります。
そしてそれが大きくなり、人生を左右するほどの「大切なもの」に、なってしまうときがあります。
maiさんにとって、このグループ、彼らが、人生を左右するものとまではいかなくても、「大切なもの」、そういうものなのだろう、と推測されます。
推測、というのはこの文章にはそれを明確に書かれていないので、私がこの文章を読んで、そう感じた、という推測だけでしかないということです。
その「大切なもの」を、人は大切だからこそ、形を留めたまま、できるだけきれいな状態で保存しようとします。
例えば、それがガラス細工だったとしたら、持ち運ぶときに割らないように細心の注意を払いますよね。
今のその原型を留めるため、形を少しも変えないため、壊さないように。
それを自分の大切なもの、アーティストに置き換えてください。
但し、いきなり置き換えて物事を考えるのは、少々分かりにくいかもしれませんので、順を追って考えていきましょう。

これを読んで下さっている皆さんには、自分の好きになった、自分が大切だと思っているアーティストは「こういうものだ」という形はないでしょうか?
例えば「彼らはこうであるべきだ」とか「△さんに限ってそんなことは言わない」とか「○さんはこんな行動をしない」ということ、つまりは固定観念がないか、ということです。
きっとそれは、maiさんだけでなく、私にも、あるもので、何も特別なことではありません。
自分にとって大切だからこそ、「こうであって欲しい」という願望は強くなるのは、至極当然なことです。
ただ、残念なことに、その思いは、上に挙げた「固定観念」に繋がっていってしまうのです。
「固定観念」つまりは、「いつも心の中にいる、他人や周りの状況によって変化しない、強い気持ち」ということです。
それが他人から見てもそうである場合ももちろんありますが(常識と呼ばれるものはこれに繋がっているのではないでしょうか)、その反対で他人から見ればどうでもいい「固定観念」というものも存在します。
例えていってみると、「私は誰がなんと言おうとも、食事を取る時には味噌汁から食べる」というようなことですね。
(実際にそういう人がいるのかどうなのかわからないので、いらっしゃったら「どうでもいい」というのは失礼だとは思いますが)
そういう、他人から見れば「なんでそんなことに拘っているのか」という気持ちを、いつの間にか、自分の大切なもの、maiさんは『彼ら』に持っていなかったか、ということなんです。

どこからそれを感じ取ったのか。
maiさんのコメントを振り返って、一例を挙げてみたいと思います。

最初の方に書かれている「○さんとスタッフは色々と試行錯誤しながら、コーラスをいれたり歌割りを決めたり、深夜のトラックダウンまで付き合って、作品をつくりあげてきました。」という言葉。
maiさんの中に最後まで作品を作り上げてきたのは、○さんだ、という固定観念はないでしょうか?
彼らも彼らに親しい人も言うから、それは本当だ、という思いです。
私はそれを知りませんでしたから、「へぇ、そうなんだ」と思いましたが、逆に「△さんがそうしてるんだよ」と言われても、「へぇ、そうなんだ」と思います。
でも、maiさんは「マジ?絶対考えられない!そんなの嘘だ!!」と思うのではないでしょうか。
いや、△さんもそれに意見を出したこともあるだろうとか、表に出てこないだけで、△さんがそういう風にしたものもあるかもしれない、とか、そういうことを考えたことはありますか?
いや、実は△さんがプロデュースした曲の方が多かったりするかも、とか。
そんなの想像でしかない、と言う人もいるかもしれませんね。
では仮に、○さんが全てのプロデュースを請け負っていたとしましょう。
寝食削って、命を削って○さんはここまで頑張ってきたんだ、と。
そんな○さんに、何故、音楽について興味を持っていて、どちらかというとアーティスト思考の強い△さんが、最近になるまで、グループのプロデュースを○さんに任せていたのかな、と思いませんか?
それをグループはどうでもいいから、と捕らえるのか、○さんに△さんが信頼を置いているからだ、と捕らえるのか、それこそ人それぞれで、想像でしかないでしょう。
また、△さんが最近になってプロデュースをするようになったのは、グループを大切にしてるから、と捕らえるのか、○さんに△さんが信頼を置いていないから、と捕らえるのか、それも人それぞれの想像でしょう。

maiさんも書かれていますがこれは「エピソード」なのです。
エピソード、つまりは「ある人について、あまり知られていない興味ある話」なのです。
こう書くと何を信じればいいのか、と思われるかもしれませんが、気持ちの余白として考えてほしいのは、エピソードだけが全ての真実ではない、ということです。
確かに真実である部分もありますが、それが全容かと言われれば、違うかもしれない、ということです。
そしてそのエピソードから得られたものは、想像である、事実ではない(こともある)、ということも分かっていただけたのではないか、と思います。

少し話が飛びましたが、つまりはmaiさんの中に「彼らはこうであるべきだ」という強い芯のようなものがあるのではないか、ということです。
その強い思いは、maiさん自身の思考に余白を与えず、ゆるぎない「固定観念」になっているのです。
固定観念、というと大げさだ、と思われる方は「その人らしい」という言葉に置き換えてもいいかもしれません。
「あぁいう行動は○くんらしいよね」というようなことです。
本当はそうではないかもしれないのに、という余白がない、強い思いです。

それを踏まえた上で、最初のガラス細工まで戻ってください。
私は、大切なもので、それがガラス細工だったとしたら、運ぶときには、細心の注意を払うと、先に書きました。
私だけでなく、壊れないように、原型を留めたままで、と、思いますよね。
でも、そう思っていても、壊してしまうこともありますよね?
形あるものはいつかは壊れるものだ、ということも一方で分かっていながらも、壊れてしまったことは、残念で悲しくて、仕方がないでしょう。
そのガラス細工を、アーティスト、アイドル、有名人に置き換えて考えてみましょう。
その有名人が「大切なもの」であるからこそ、いつの間にかできてしまった「彼らはこうであるべきた」という固定観念、つまりは自分にとっての原型があります。
その原型を、「大切なもの」だから、壊さないように、できるだけキレイな状態で保存している。
なのに、その「大切なもの」を脅かす行動や発言があった。
それによって、その「大切なもの」が壊されてしまった。
それが、残念で悲しくて、人は傷付く。

長い説明になりましたが、ファンには人それぞれに「こうであるべきだ」という、「原型」が、多かれ少なかれ、ある、ということです。
そしてその「原型」が大切だからこそ、壊れると悲しいのです。
これは人にとって当たり前の感情で、大切なものを傷つけないで、と思う気持ち、maiさんの言葉を借りれば「そういうことはもうやめてと願うこと」は当たり前の感情なのです。

但し、ガラス細工とアーティスト(有名人)には大きな違いがあります。
それはアーティストには、本来「原型」がないということです。
ガラス細工のものは、誰が見ても、その形が「原型」です。
でも、人の気持ちや人の心には「原型」はありません。
上でも説明したように、大切だからこそ出来てしまった「原型」はひとつのエピソードから作られたものであったり、人の想像から出来たものであったり、しています。
しかも、アーティストは生きている人間です。
私たちと同じ様に、日々感じ考え、進化もし、時には退化もします。
つまりは「その人らしい」というものには原型がないので、その形は変化しても当然だ、ということです。

それを心の中にいつでも置いておきたいものだ、と私は思います。
これを読んでいる貴方も「○○さんだったら出来ると思っていたのに」と言われて、ショックだったことはありませんか?
申し訳ない気持ちになったことはありませんか?
「○○さんだったら出来る」というのは相手の勝手な想像、相手にとっての自分の「原型」ですよね。
それと同じようなことを、自分の好きなもの、アーティストだったりに投げかけている、ということです。


こういう風に書くと、「ではアーティストの発言や行動に文句を言えず、自分が愚かだった」と思わなければけないように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。
但し「文句」であってはならない、と思います。
「意見」でなくてはいけないと思います。
それについて長くなりますが、これから述べていきます。

有名人は人から「こういう人だ」と思われて成り立っている商売である、と私は考えています。
そういう点では、アーティストは、もちろん音楽も商売ですけど、自分の発言が商売につながると思います。
例えば、最初は音楽だけを気にって曲を買う人もいるでしょう。
でもその曲を好きになるうちに、その曲を作った人はどんな人だろう、という気持ちが生まれることもあるでしょう。
どんな人か、を知りたいと思ったときに、その人の発言に触れられる機会をどうにかして作ろうとしますよね。
アーティストと一般人は直接触れ合える、話し合える機会が、その存在が大きくなれば大きくなるほど少ないので、雑誌やメディアでの発言を元にします。
その発言から「あぁ、この人は私にとって大切だ」と思うから、ファンになることがあります。
アイドルの場合だと「顔がカッコイイ」から始まる場合が多いと思うのですが、つまりはその有名人が発する言葉が、自分の商売を成り立たせている(一端である)、ということは分かって頂けたでしょうか?
しかも、憧れるがあまり、その一言に人生を左右される人もいるかもしれない。
そんな商売です。
だからこそ、アーティストは公になれば公になるほど、自分の発言には気をつけるべきだと思います。

でも、アーティストも、アイドルも、有名人も、私たちと同じ人間です。
伝えたい言葉をうまく伝えられなかったり、時には自分の感情が負になってしまって、否定的な発言をすることもあります。
そしてその発言は「その人らしい」という多くの人のイメージ(パブリックイメージ)から反れてしまうこともあるでしょう。
しかもファンが多くなれば多くなるほど、「彼はこうであるべきた」という思いも、大きい小さいは別にせよ、そのファンの数だけ増える、多くなる、ということです。
それから全く反れないでいるということは、不可能に近いですよね。
それら全ての思いを裏切らない人がいれば、その人は人間として凄い、凄すぎる人です。
もしそんな人がいるのなら、その生き方を学んでみたいものだと思います。
私は『全ての期待や思いに応える』なんていう自信はありませんから。

そんなことを感じ考えた中での発言のことを、私は『誹謗中傷』とは言わないと考えています。
『誹謗』とは「他人を悪く言うこと、そしる(非難する)こと」という意味です。
そして『中傷』とは「根拠のないことを言いふらして、他人の名誉を傷つけること」という意味です。
これを見てわかって戴けると思うのですが、『誹謗中傷』とは考えなしに述べた意見ということです。
たとえいろいろ考えていたとしても、心に余白のない状態、「この人はこうであるべきだ」という固定観念から逃れられずに、ただ感情をぶつけた可能性が高い発言は『誹謗中傷』にあたると思います。
maiさんのコメントから言葉を借りれば「音楽に興味もないような人と組まされて音楽的才能溢れる△がかわいそう」というのは、これに当てはまると私は思います。
この発言をした人は○は音楽に興味がない、と固定観念を作ってしまっています。
その根拠は、△がそう言っているからです。
この発言をした人にとっては△は絶対でゆるぎないものだからです。
その時点で物事を多角的に見ることはできず、その発言は「○さんは音楽に興味を持っているのに」と思っている人にとっては中傷になりますし、もしかしたら、○さん本人にとっても中傷になるかもしれません。

ただ一方で「こうして欲しい」という思いが大切だからこその思いだ、ということも私は知っています。
自分にとって大切だから、その形からできるだけ反れて欲しくない、壊れて欲しくないという思いを、持っていることも。
かのブログの人の「アーティストに物申すな。」は、maiさんにとっては、『ありのまま全てを受け取って、それを自分の価値観と照らし合わせて違うと思っていても、何も言うな』ということだと感じたのだと思うのですが、私は『誹謗中傷はするな。批判をせよ』ということだと受け取りました。
同じ言葉でもこうして印象が違うということは再三これまでも言ってきたのでわかって戴けると思います。
私は、上に述べたような思いがある限り、『批判』があってもいいのではないか、と思うのです。
『批判』とは「物事に検討を加えて、判定評価をすること」です。
ただ、この『批判』が難しいのです。

物事を検討する場合、多角的に物事をみなくてはならない、というのはよく聞くと思います。
でもこの多角的に物事を見るためには、「この人はこうであるべきだ」という固定観念は邪魔なものですし、大切なものを傷つけられる恐れがあるため、防衛反応が働き、考えられなくなってしまうこともあるでしょう。
『批判』は相手そのものをまず受け取って、その人の気持ちに寄り添って、そして自分の中でよく検討されて、出された発言でなくてはなりません。
つまりはその人の立場に立って、その状況を受け入れ、自分の考えを明確にし、自分がどう行動すべきかを考える、ということです。
だからこそ難しいのです。

たとえ話ばかりでもうしわけないのですが、自分の好きなアーティストが、伸ばしていた髪を切った、とします。
「伸びているほうが良かった」と思う人と「切ったほうがいい」と思う人がいるでしょうね。
ファンは「私は長いほうが好き」とか「短いほうがいい」とか勝手に言います。
好みの問題なのでよりそうことは難しいと思うかもしれませんが、どちらもあってしかるべき意見であることは、わかると思います。
そこで本人から「自分は髪の毛が短いほうが好きだから」という発言があったとします。
そしたら「長いほうが好き」と言っていた人は「えー似合ってるのに。残念」と思いながらも、どこかで「本人が好きだといっているし、仕方ない」と思うのではないでしょうか?
それでも抑え切れなかったときは「私は長いほうが好きだったので、できれば長いのにもチャレンジしてほしいな」と伝えるかもしれません。

このたとえ話は、上の『批判』になっている、ということは分かって頂けるでしょうか?
この髪型を好きだと言っているアーティストのことを尊重して、その状況を受け入れた上で、自分は長い方が好きだという自分の考えを明確にし、相手を尊重した上でそのことを伝えるという行動を取った、ということです。
これが深い内容になっていけばなっていくほど、難しいことなのですが、そうでなければならない、と私は考えます。
『微力ながらでも、人それぞれを尊重し、考えた上での自分の思いを伝えようとする心は大切』ということはこういう考え方から成り立っているものです。
そして『感じたことをそのままに その2』にも書いたように、『それが大きな力となることもあり得る(それはいい意味でも悪い意味でも大きな力になることもある)』ということも同時に理解しなければならないと思う根拠です。




今こうしてつらつらと書いていて、正直、万人にこの思いが伝わるかといわれればそうではないと思います。
それにmaiさんの求めていた直接的な言葉ではないでしょう。
だけどこれが、今の私に返せる精一杯の言葉です。
この文章を読んで、何か感じて頂けたら、とても嬉しく思います。

またmaiさんからも、他の方からも、率直な感想を頂ければ幸いです。


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